1万700キロ
感想日記(このすぐ下からです) 完走の感想(このページの後半です)
1月1日905キロ パリ ホテルからスタート地点(バイクの保管場所)まで(約7km)のタクシー捕まらず。石井号(パリダケ、サポート軍団の大将)でエッフェル塔へ。雨の中、朝6時905キロのステージへ。真っ暗で寒い。沿道にはたくさんの人がいて、900キロ延々と手を振り応援してくれていた。子供から老人まで男女問わず。この過酷なラリーに挑戦する人たち全員のことを激励しているのだろう。激寒のなか、厳しいステージだったが、まさにパリスタートのダカール。これだけでも十分にパリダカを満喫できるほど素晴らしい一日だった。この日の宿泊はナルボンヌの安ホテル。ゴール周ナルボンヌ着は夜8時頃。周辺には屋台もたくさんでていて盛り上がっていた。

1月2日569キロ この日の最初に30キロほどのSS。ガレ場の多いマウンテンコース。霧で何も見えない。とりあえず慎重に走ったが、最後のコーナーでオフィシャルが何かジェスチャーをしている。ギャラリーにサービスしろと言うことかと思いちょっとアクセルあけて曲がろうとしたらスリップダウン。右ミラー壊れる。どうも滑るというジェスチャーだったらしい。これからはよけいな物に惑わされず自分で判断していこうと決める。ちなみに三津橋君も同じようにこけてタンクをへこませた。(彼は、ssフィニッシュでスピード落とせといわれていると思い、フロントブレーキをかけて滑ったらしい)。この後我々はパットのバンにバイクを積んでスペインのカステロンへ。そのバンの中で寝る。直接パルクドアシスタンスに行ってしまったため、そこから勘でコマ図の地点を発見しに行きゴールを通過。ここでもアナウンスと共に歓迎される。走ってないのにちょっと照れくさい。
1月3日531キロ この日のssはキャンセルに。スペインのフェデレーションが許可しなかったらしい。とりあえずコースだけを走る。しかしその3分の1でエンジンストップ。いろいろ試して1時間ほどキックしていたがだめ。あきらめて公道まで押していき、そこからアシスタンスのもとへ。このSSがキャンセルでラッキーだった。原因はガソリンフィルターの出口にあるらしく、その辺のメンテをしてとりあえず復活。不安ながらもまあ様子を見る。今日はブラジリアンのサポートカミオン(タトラ)の荷台で寝る。時々とまって外にでると暖かい。ずいぶん南下してきたのだなあと思う。ブラジリアンのマネージャーはのんきで、休むたびにカフェに行ったりしてゆっくりしている。港に着いたときもパットが「どうかしたのか」と聞いてきたぐらい。大瀬さんはちょっといらついていた。ちなみにドライバーのチェッコ人は英語がよくできず、うまくコミュニケーションがとれなかったが、最後にスパシーバといったら、おまえはロシア語わかるのかと聞かれて英語よりはと答えて、ちょっと盛り上がって会話をする。港からバイクを出してモロッコ用に給油をした。このとき大瀬さんは軽油を入れてしまい、港で大騒ぎ。パット達が港の側溝に軽油を捨てて僕のリアタンクのガスを入れてとりあえず復活。タンクの中のガスにさわって変だといったのはマイクだった。このトラブルで、TSOに早く乗ってくれと何度もせかされる。フェリーに乗るとすぐにレストランに。金森さんに混むと聞いていたため。案の定すいていてすぐ食べられる。そこに増岡さんがやってきて、「今トップにいる。今年は獲るよ」と勝利宣言。力みもなくすごさを感じる。その後モロッコの入国審査をしてから部屋に移動。二人部屋で鍵もあったため、だったら先に荷物を入れておくんだったとちょっと後悔。両替に行って、ここはアラブでシュクランジャジーラン(ありがとう)の国だとわかる。両替の親父にシュクランジャジーランといったら、にやっとして端数を切り上げてくれた。
1月4日602キロ いよいよアフリカ大陸。モロッコ入国。この日のSSはわずかに190キロ。まさにウオーミングアップでたいしたことのないコースだった。リエゾンであまりの景色の良さと雄大さに、マイクと大瀬さんとゆっくり帰ってきたら日が沈んでしまい、浅賀さんに今日でこの時間じゃ厳しいよと言われる。パットにも明るいうちに整備したいから早く帰ってきてくれといわれ反省。翌日からラリーなんだからさくさく行こうと決める。しかし、この日以降も含め、モロッコではSSでもリエゾンでもとにかく警官や軍人がたくさんいてミスコースのしようがないような設定であった。
1月5日572キロ 初の砂丘登場ということで気合いを入れたが、小砂丘どころか砂丘の端だった。大したことなし。しかしみんな低いところの轍を行って苦戦している。僕はいつも通り堅い上を淡々と走行。この砂丘に入る前のCPには、結構みんなミスコースしてあらぬ方向から来ていた。ドライレイクのハイスピードなところもあり、なんと言うこともないコース。
1月6日608キロ 朝5時のリエゾンスタートのため、暗い舗装路のワインディングを行く。ライトが暗くてよく見えずスピードが上がらないが、みんながんがんとばしていく。僕には無理。あとでこのライトがあまりにハイビームで何も見えていないことがわかった。この日から少しガレ場登場。結構ハードなガレ場の始まり。パリダカは砂丘よりガレ場がきついということを感じた。しかしあまりにガレすぎていて日本で練習はできないんだろうな。しかし、高速ドライレイクもあってそんなに厳しくはなかった。今日も後半のリエゾンで景色のでかさに打たれる。人間の小ささと、その中で生きている人のたくましさを感じた。この日は結構まじめに走ってみたら82位。このぐらいまでは行けるのかと思ったが、まあ無理はよそうと翌日からはペースを落とす。

1月7日489キロ ようやくSSが400キロを越え始める。ガレ場が多く、ものすごくがれた岩場の急な登り下りがあり、僕のように下手な者は歩くようなスピードで慎重に通過する。これでアフリカ4日目、そしてモロッコのステージが終わる。朝のリエゾンで赤ちゃんを連れたお母さんや子供達が手を振っているのにお返しをしながら、赤ちゃんに思いっきり手を振る。蒼太を思い出して、つい愛想良く振ってしまっている。フランスでの声援からずっと感じていたが、どの国の人もはこんなに友好的なのに、何で戦争なんか起こるのか不思議だ。この日のビバークでまだ4日が終わっただけ。まだまだ先の長いことを考えた。ドバイだったらもう終わっている。さすがにパリダカだなーと実感。
1月8日628キロ いよいよモーリタニアに入る。オールSS。本格的なパリダカに突入。この日と次の日はマラソンステージで、ツールボックスはこない。寝袋は預かってくれると聞いていたが、どのスタッフに聞いてもそんなことはないといわれ、仕方なくしょって走る。KTMの女の子は憤慨していて、そのせいかこの日でリタイヤ。思いっきり登り、そこから平坦地を縫いながらの砂丘越えが延々と続く。僕らにとってはなんてことない砂丘で、ラインも選びながら、淡々と越えられた。シュレッサーの相棒のバギーがすり鉢でスタックしていてヘリで撮影されている真横を通過。この日の100キロ前後で細野君がフロントホイールを組み直しているのを発見。なんでこうなるんや!といいながら、かなりまいっていた。絶対にあきらめないでビバークにこい!といって後にしたが、その後のコースを走ってこれは無理だろうなと思った。しかし、彼はなんと8時に夕食を食ってるところに帰ってきた。これには驚いた。たぶんこれなら行けるんじゃないかと感じてしまった。またこの日のビバークでモーリタニアの人柄の悪さを実感。ビバーク警備の人まで物をくれと言って来る。さらにスタンドで給油したら、スタンドの兄ちゃんは50フランくれと言うし、警官まで俺にも50フランよこせという。警官がこんなんだから上も押してしるべしで、この国の政治が相当めちゃくちゃなものなんだろうということを実感する。国民がかわいそうである。子供達の目も曇っているのがはっきりわかる。

1月9日628キロ 早朝に砂丘を越えてパットが到着。びっくりすると共にありがたかった。いきなり深い砂の轍のガレ場で、最初の5キロに30分以上かかった。その後は、GPSメインの面白くハイスピードのセクションで楽勝。CP3から後、GPSポイントが直行より右に設定されていたが、みんなの轍は直線。僕は途中からGPS走行で独走。マイクも同じ選択をして出会う。しかし何の轍もないため、7キロぐらいでとまってマイクと話そうとしたら、付いてきた115番がどうしてこっちに行くんだ。轍はあっちだと言っている。僕はGPSが指している方に行けばその後が楽なはずだ、僕は自分の判断で全責任を負うと言ったら、マイクにもきいていた。マイクは一言、Go Straitと言った。彼は自分で戻ることもできず、しかたなく我々についてくる。しかし僕とマイクが違うラインを選ぶのでとまどっていた。そしてGPSポイントで2輪15台4輪2台ぐらいの轍の束を発見して振り返って指さすと、115番は納得していた。そして我々より先に行ってしまった。その後僕とマイクはそれぞれ勝手に走りながらもまた合流。僕もマイクも、フロント突き刺しの前転をしながらも、順調な走行。しかし僕はその前転で左膝をひねりかなり痛める。そしてCP4からゴールまでは、またガレ場の入った道で来た道を戻るのだが、マイクはどうもGPSで直線に行ってしまったらしく右に大きくそれていった。僕は行きの道をトレースして谷まで順調にいったが、問題のガレ場の谷で苦戦。スタンディングでしっかり抜けようとしたが、ガスのトラブルでうまくエンジンが回らず、開けたところで急にパワーがかかってスリップダウン。5キロほどのスピードだったが運悪くナビシステムを石にヒット。MDを壊してしまった。さらに右手親指付け根にひびが入ってしまったらしく、えらく痛い。なんとかその後ラインを選んでガレ場を越えたが。壊してしまったことが申し訳なくてパットにひたすら謝った。謝りすぎておまえは謝らんでいいからしっかり走れと言われる。マイクは案の定がけの上に出てしまったらしく、僕より2時間ぐらい遅くなって夜帰ってきた。大瀬さんは谷で苦戦して、押して抜けてきたらしく、7キロに2時間かかったという。既にゴールはなかったが、念のためもう一度ビバークからゴールまで2キロほどの轍の中を戻って、ゴールなしを確認してきたらしい。

1月10日440キロ この日はレストデイ前で、厳しいコースらしかった。砂丘がメインなので僕には特に無理のないコース。しかし昨日の痛手から、アクセルをうまくあけられず、親指をかばって小指の筋に激痛が走り始める。コースよりもこっちがきつかった。さらに日没後に5キロのssを残してしまいその5キロに30分かかってしまった。堅い轍の上にふかふかの砂で、ライトが弱いためスピード上がらず、バランスも崩れて苦労する。轍も何通りもありナビも大変。こりゃ本当に夜にならんようにがんばらなきゃと実感。砂丘に負けてリタイアするものが増えてくる。大瀬さんはこの日午前4時帰着。
1月11日休息日 水に当たって朝から激しい腹痛と水便(なんと血混じり)。夕方までに駄目なら薬をもらおうと思って我慢。しかしやっぱり駄目だったので、抗生物質をもらいなんとか夜までに下痢も痛みも止まり復活。
1月12日508キロ 前日の休息でずいぶん手は楽になった。しかし若干まだ小指の筋が痛い。もちろん親指の付け根も振動の度に激痛。この日もコース的には大きな砂丘もなく、ガレ場よりもキャメルグラスのぐちゃぐちゃサンドで苦労する。しかし相変わらず右手の激痛との戦いという状況。いやーパリダカだなーと実感
1月13日654キロ。 この日はもっとも長いSS580キロ。前半稼げるコースだったはずが、砂嵐で視界が効かずCP1まででずいぶん時間を食う。その後はキャメルグラスもいっぱいあり、かなりハードなコース。砂丘越えは本格的で楽しめたものの後半のキャメグラ、小砂丘でモーリタニア独特のはまりを何度か。よってゴール100キロ手前で日没。ライトがおかしいと感じて光軸を少し下げた。その作業中、砂漠の静かさが気持ちいい。さらに、月もないのに星明かりで風景の輪郭が見えることに感動。光軸調整でいくぶんましになったが、それでも他車より暗く、苦戦しながらも前進。後60キロの地点でたき火をしているライダーを発見。声をかけてエンジントラブルと判明。60歳近いおじさん。5回目だという。3回は完走しているとのこと。すごくいい味を出していて、またこれもパリダカかと何となく感じ入る。彼を後にして30キロ暗い行ったところで135番を発見。ガス欠だという。僕のガスもぎりぎりだが、リアタンクに残っている分は大丈夫だろうと彼のリアタンクをはずしてわけてあげることにした。それが終了した頃(約1時間)TSOのカミオンバレーが逆送してきてガソリンをわけてもらう。僕も念のためにわけてもらったが、なぜかそれが映像になり流れる。どうも僕がガス欠したように放映されていた。結局この日ビバーク着は3時。寝たのは4時となる。

1月14日535キロ もっともハードと言われるステージ。多くの深夜着のライダーがこの日はスタートのみでキャンプ地で1日休息(CP不通過のペナルティーを受けるだけ。この日はゴールも同じビバークだから)。僕は3時間寝たのでとりあえず行けるだけ行ってみることにする。CP1(148キロ)まで3時間20分。既に12時近い。このペースだとまた日没後100キロ弱が残りそうなため、CP1から戻ることにする。ショートカットがないためCP1で1時間ほど休息し、おおかたの4輪が通過したところで逆送開始。3時間30分かけてゴールにいたりこの日は535キロだったが僕は320キロのステージとなった。200キロ短いパリダカとなってしまった。キャンプに帰り大瀬さんが足首の捻挫でリタイアしたことを知る。医療テントに行くともうセネガルに向けて出発する直前で5分ほど会話をして大瀬さんは出発。細やんが部品をはぎ取ろうとするが残念なことにもうバイクは行ってしまっていた。
1月15日234キロ 短く簡単なステージと言われたが、最後30キロほどキャメグラのぼこぼこ連続で結構きつかった。というものの3時にはビバーク着。オアシスの風景のよう静かないいビバークだった。パットはこの日ルートがないため翌日ビバーク地に直行。自分でチェックをする。
1月16日499キロ この日がラストハードデイといわれて、これをクリアーすれば後は消化試合という空気が蔓延。僕も日没前にゴールしたいと結構マジに走る。コーナーの立ち上がりを早くしてペースアップを図ったら、いつも抜かれている人たちまで抜いてしまう。ふーんそんなもんかと思っていたら350キロほどで腰に激痛。どうやってもとまらず、場所が場所だけにリタイアも考えTVクルーを発見。そこでバイクを止める。腰が痛くてといって無線で呼んでもらおうかと思いながらとりあえず一服。小便をしてストレッチを試みる。なぜか痛みが減りこれなら走れそうだと再スタート。調子よく走っていたら425キロ地点でよもやの大クラッシュ。頭を強く打ち一瞬目の前が真っ暗になりもう終わりかと考える。しかし2秒後ぐらいに視界が回復。立ち上がりバイクに向かうがものすごく体が痛い。バイクを起こせずうずくまっていると見物に来ていたフランス人が車で通りがかり、起こしてくれる。なんとか再スタートが可能になる。その後は順調に走り日没直前にゴール。目標通りになったものの痛手は大きい。あせってはいけないと痛感。転倒している時間を考えたら、そんなに焦らずじっくり構えてもそんなに遅くはならなかったはずだ。マイペースの必要性を痛感。カミさんのメールにあった、be naturalという単語を思い出す。
1月17日776キロ マリに向けてのステージ。もうキャメグラもない。でもラリーはまだ終わっていないとオリオールがブリーフィングで言うぐらいだから、激しいコースではないはず。しかし、前日の転倒の影響で力が入らず、まともにバイクを起こせないため、絶対に転倒しないようにしようと慎重に走る。この日のSSは214キロ。140キロまでは無転倒でいったがそこで転倒。何とか自力で起こしたもののこれが限界。バランスも崩れその後10キロで3回転倒。自力では起こせない。さらにコースは最悪の堅い轍の上の深い砂。前半は轍を使ったが、こけた後は時間を気にせず極力草地を探して上を行く。1度はプレスカーに、1度は地元の人に、1度はサポートカーに起こしてもらう。サポートカーに抜かれるほどだからマキシマムタイムもオーバー。SS出口でパットに会うが、とにかく体が利かない。歩くのもきつい状態。これから456キロのリエゾン。しかも最初の100キロはSS同様に結構面倒な道。既に2時半。夜は間違いない。行くしかないのでマイペースで走る。あと130キロで日没。その後マリの夜のいい匂いに気が付く。お香をたいたような良いにおいで自然にわき出ている。この香りが気持ちよく、ずいぶん癒された。さらに村々で夕食の準備の火がとても暖かく見え思わず立ち寄りたくなる。さらにバマコが近づきものすごい街の明かり。久々に見る明かりである。妙に元気が出てきた。10時にビバーク着。翌日の準備をして寝たのが1時。明日は4時スタートなので起床は3時。800キロのロングステージ。テントを建て畳む時間も惜しいのでそのまま寝袋で寝る。またマリの人々、子供達の反応から、この国の政治がわりとまともな方向であることを感じる。

1月18日804キロ この日もまだからだが痛い。バイクにまたがりスタンドもはずせず頼んではずしてもらう。カミさんのメールのbe naturalを再び思い出し、完走に向けて戦うのをやめ、いつも通り、マイペース。リタイアしたらしたでしょうがないとき持ちを切り替える。なぜかスムーズになる。SS途中でも小便したくなったのでしっかりとまり用足し。そのとき畑から現地の人が夫婦と赤ちゃん連れでやってくる。赤ちゃんをあやし、楽しく会話。これですっかりロシアンラリーモードに。800キロが楽しいツーリングとなり、日没直前にビバーク着。パットのところに行くと妙に喜んでいる。エアツールのところに行くとTSOのスタッフがびっくりして周りのスタッフに声をかけた。みんな驚きながら誉めてくれる。おまえはこれでダカールに行けるぞとものすごい喜びよう。おそらく、朝の様子を見て今日の800キロは無理で、これが僕のラストデイだろうとみんな考えていたのだろう。どうもパットもそうらしい。しかし帰ってきました。無転倒です。

1月19日299キロ この日も相変わらずマイペースで楽しく走る。体力も戻ってきた。(といってもバイクは起こせるというレベル)。トラブッた人以外の最後尾であるが、問題ない。楽しいツーリングデイ。無転倒。
1月20日564キロ 今日のゴールはいよいよダカール。SSも217キロしかない。楽勝と思いきや、またまた堅い轍の砂深い道。さすがにパリダカ、最後までやってくれる。今日もこけないぞと思ったが、3度スリップダウン。悪循環に陥りそうになったが、マイペースを維持してゴールへ。ダカールの海が見えてきて妙に感動。ついに来たんだナーと実感する。この日、シュレッサーの暴挙があり増岡さん順位を下げる。

1月21日100キロ 今日は海岸からのビクトリーラン。楽勝と思いきやリエゾン最後の5キロが避け場のないめちゃくちゃサンドの轍でまいる。やっぱりパリダカ。最後までやってくれる。海岸について、今日は2時間後に一斉スタートとなる。その間皆思い思いにだらだら過ごす。この先のSS30キロも甘くないだろうなーとちょっとブルーになりながらもバイクの横に寝っ転がり感慨に浸る。11時半ブリーフィング開始。フランス語でやったあとオリオールが英語で話そうとしてなぜか言葉に詰まる。みんな、英語なんか気にせず一緒に写真を撮ろうとオリオールを誘い、海岸でライダー全員と記念撮影。僕も妙に泣けてきた。ついに来てしまったんだナー。その後スタート前にオリオールが僕のところに来たのでお礼を言う。サビーヌ亡き後、こうしてパリダカを続けてくれたおかげで僕の夢は15年ごしに実現したことを伝えた。そしてこうしてまさに本格的に近いフルコースのパリダカールにこれてうれしかったことも伝えた。その後ヘリが舞う中一斉スタート。皆気合いを入れているが、僕はマイペース。10キロの海岸沿いのコース。もったいなくて最後尾を行く。映像で見て夢に見たパリダカのビクトリーランを今走っている。水しぶきでゴーグルが曇ってくるが、涙と混ざってよくわからない。海岸から内陸にターンをするとやっぱり深い轍のサンドコース。僕はいつも通り轍を嫌い草の上を淡々と縫う。ギャラリーがたくさんいた。僕の見える範囲に誰もライダーはいない。おそらく僕が残ったライダーの中でいちばんへたくそなのだろう。見ている人もどうしてこいつが完走できたのかと考えているのだろうナーと思った。しかし、僕はこうして無理せずバイクをいたわりながらダカールまでやってきたのだから、こうして僕はここまで来たのですとみんなに見てもらえばいい。気にせずマイペースラインを行く。残り8キロほどは池の周りの堅い路面。ペースは上がるが無理はしない。ここでとばしても意味はない。そう思っていたらマイクが前でとまっている。特に問題はないみたいだが声をかける。そこから一緒に軽快にゴールを目指すマイクと併走してゴール。二人で固い握手。記者のインタビューも受ける。細やんが答えているとき、BGMとして拓郎の歌を細やんのラリーの替え歌にして、♪私は今日まで走って来ました〜、ときには人に助けられて〜、ときには誰かに部品をもらって〜、私は今日まで走ってきました〜、そして今私は思っています〜、明日からもこうして走っていくだろうと〜。私は今日まで走ってきました〜、コースでホイール組み直して〜、毎日マフラーなおしながら〜・・・♪と歌っていたら、つい細やんの声も詰まってしまった。そういう僕の歌声も詰まっていた。ついにこれでパリダカは終わり。後35キロのコンボイパレードがあるが、まさにこれはパレード。みんな気ままなライン取りで秩序なくコンボイになっているが皆誇りに満ちた様に見える。排気音の合唱もすさまじく、何となく暴走族の気持ちが分かってしまう気もする。パルクフェルメにつきついに全行程終了。

1月22日 港まで、またまさにラリー。時間指定だけで地図もなく港へ。みんな迷いながら走っている。その夜日本大使公邸に日本からの参加者が招待された。そこで出された寿司はこのうえなくうまかった。元白バイ隊員で書記官の藤間さんと会話も弾む。そこから空港に直行。空港ではまたパリダカ。あっちこっち搭乗口が変わりさらに1時間遅れ。最後まで楽はさせてくれない。
1月23日 パリ着。荷物運搬するのにも体不自由で苦労。タクシー待ちもパリダカ関係者がジャンボ2機分も追加されているので大渋滞。1時間待ち。ホテルでカミさんと蒼太にあう。カミさんが意外と淡々としているのでちょっとびっくり、と同時にさすがうちのカーちゃんとうなずく。
1月24日 パットの店で挨拶。記念撮影。パットもうれしそう。大瀬さんは来年再挑戦したいという。パットも去年は簡単だったし、今年であそこまで行けたならマインドを強くすれば行けると言っていた。

15年越しで参加、完走を果たして・・・。
オフロードバイクに乗ったこともないのに、パリダカにでるんだ! と決めてから15年が経ちました。最初は5年で達成しようと考えていましたが、行くからには完走しなくちゃと一発完走を目指し準備をし、さらに市議会議員になってしまって普段の練習が全く出来なくなったこともあり、気が付くと15年が過ぎ去っていました。
準備万端。絶対に完走できると自信を持って望みましたが、さすがにパリダカ。他のラリーとは全くの別物。世界一過酷と言われるだけはありました。砂丘対策は万全で、砂丘は楽しくてしょうがなかったのですが、ガレ場(岩だらけのところ)がすごかった。スイカぐらいの大きさのとがった岩が一面ごろごろのところが何キロも続いたり、玉砂利が一面広がっている断崖絶壁の急な下りが頻発したり、私にとってはパリダカは砂丘ではなくガレ場のラリーだと感じられたぐらいです。
完走は出来たものの、持てる力を全て出し切って達成できたというのが現実です。パリに帰って、箸も使えない、自力で起きられない、全ての指に力がない、体重が8kg減っている、チャックも開けられない等々、とにかく体はボロボロでした。
それだけに完走した喜びは言葉には出来ないものがありました。15年思い続けてダカールの蒼い海を見ることが出来て幸せでした。
パリダカのすごさはコースだけではありませんでした。運営システムから何から何まで全てが越えていかなければならないものです。日本のイベントのように過剰(?)なサービスはありません。十数カ所の書類審査を経て、その後一切は「案内に書いてあるとおりです。」ということで、なんら説明はありません。各国の出入国手続き、両替についても、自分で情報を得て対応しなければなりません。ぼっとしているとやり損なってアウトです。毎日のビバーク(キャンプ場)もその日ごとにレイアウトから給油の位置までてんでバラバラ。何から何まで自分で積極的に情報を探して対応していかないと、何にも教えてはくれないのです。「パリダカにくるんだからそんなことはわかって当たり前」という主催者の姿勢が出ています。
こうして21日間、コースを走るだけでなく、移動の生活全てを含めてどうやってダカールにたどり着くのか?全部含めてパリダカという競技なののです。ベテランの山田秀晴さんから「全てが試されるよ」と聞いていましたが、まさにその通りでした。言い訳しても何にもなりませんし、自然の中ではごまかしが通じない。自分自身がそのまま出てしまいます。よくもまーこんな競技を考えたものです。面白くて仕方がありませんでした。
競技としてのパリダカの面白さの一方、その通過する大地の広さ、国の変化等、そのスケールも大きく、色々なことを感じさせてくれました。
通過する国の間にまともな国境はありません。フランスとスペインの間も料金所程度のものがあるだけです。しかしそれを境に建物も通過も人々のノリも何もかもが変わってしまいます。アフリカでも国境らしき場所に旗が一本立っているだけだったりしますが、明らかに人々の様子は変わります。レポート文中にも少し書きましたが、特に子供達の表情が全く違うのです。何にも事前知識がなかったにもかかわらず、それぞれの国の政治体制がどのようなものなのか、直感的に感じ、わかってしまうのです。(帰国後調べてみると予想通りでした。)政治というのはこれほどまでに大きな影響を持つのだと言うことが実感されました。誰がなっても同じ、とよく聞きますが、そんなことはあり得ない。政治の影響のすさまじさ。身にしみました。
ふと、日本の子供達を同じ視点で見たときにどうなのだろうとも考えてしまいました。私の住む草加のような首都圏の子供達を第三者の視点で見たとしたら・・・。物質的には豊かな国ですが、アフリカの国々の子供達と比べて瞳は輝いているのか?答えは厳しいものです。皆さんはどう感じるのでしょう。
通過した6カ国、全てに共通して言えたことは、どこの国の人々も、参加している十数カ国の人々も、人種の違いなど意識せずに皆フレンドリーで暖かい人々であったということです。中には当然そうでない人もいますし、その親切さの背後に目的を持った人達もいました。しかし、圧倒的多数は他者に対して寛容で暖かく、そこに国の違いはありませんでした。
個人個人としてはそうなのに、世界では過去、そして現在も争い、戦いが絶えません。どうしてなのだろうと走りながらずっと考えてしまいました。国と国、民族と民族が争う理由。複雑で歴史的なものも多々あることでしょう。しかし、一人の人間同士としてみた場合には、その理由は見あたりません。まさに政治の貧困さが生み出すものとしか思えませんでした。戦争は絶対の悪のはずです。ただ、小さな子がお母さんに抱かれながら一緒に手を振っているのを見たときに、ふと感じました。こうした純真で邪心のない人々を抑圧し、迫害するものがあるとすれば、それに対する戦いは生まれてくるにちがいない。他人を傷つけようとするものから自らを護るために行われる戦いは、必然的にうまれてしまうだろうと・・・。
私一人の力は本当に小さくて大したものではありません。でも、小さな一歩からしか何ものもうまれてはきません。わずか6つの国を駆け足で通過しただけですが、そこで出会った素敵な笑顔、優しさが絶えないように、そしてさらに広がっていくように、自分に出来る何かをしていこうと思います。
パリダカールラリーは、2輪4輪で誰が一番速く走れるかを競う競技です。しかし、その中には本当に多くのものが詰まっていました。ここに書かせていただいたことは、そのほんの一部でしかありません。理屈ではなく魂で感じることが数え切れないほどありました。
こんなものを創ってくれた、ティエリー・サビーヌに、喜んで励ましてくれた家族に、支えてくれた多くの人達に、心から感謝しています。